【優しい噓は許されるか?】カントの道徳観から現代社会を分析する
あなたはコンビニで夜勤をしている。夜中の2時を過ぎた頃のこと。あなたの友達が慌てた様子でコンビニに入って来た。
事情を聞いたところ、金のトラブルで知人に殺されそうになったところを命からがら逃げて来たらしい。
コンビニのトイレに匿ってもらいたい、30分くらいを見計らって、怪しい人物が来なかったら声をかけてほしいとのこと。あなたはもちろんそれを了承した。
その数分後に今度は別の男が来店し、あなたにトイレに匿った友達の顔写真を見せながら尋ねる。
「こんな顔の男がこのコンビニに来ませんでしたか?ちょっと探していて...」
そう尋ねる彼のコートの内側には、キラリと光るナイフが見えた。
嘘をつくこと=悪い(非道徳的な)行為
この方程式に異議を唱える人は少ないと思います。
一方、上記の状況では、嘘をつく人が多いでしょう。
「そんな男は来ていないし、見てもいない」と。
もし真実を告げてしまうと、あなたの友達が危険な目にあうことは明白であるためです。
人を助けるため、人を傷つけないための嘘=『人間愛のためにつく嘘』は、非道徳的な行為とは思えません。
有名な話で「銀の燭台」というものがあります。
http://koudanfan.web.fc2.com/arasuji/09-09_lesmise-gin.htm
パン1つを盗んだ罪で約20年投獄され、人間不信になったジャン・バルジャンという男が、心優しき司教に出会うというエピソードです。
教会にある銀の食器を盗もうとして守衛に捕まったジャン・バルジャン。司教の前に突き出されます。
司教は守衛に...
「その食器は私が彼にあげたものです。離してあげてください。そうだ、友人。あなたは急ぎすぎて、忘れ物をしているよ。この銀の燭台もあげると言っただろう。持って行きなさい」
と嘘をつきます。
この一件以降、ジャン・バルジャンは神の存在を信じ、世のため、人のために働くように。
一つの嘘が、一人の男を改心させることになるのです。
日本では「嘘も方便」と言う言葉があるように、基本的に嘘をついては行けないけれども、場合によってはついていい嘘もあるよね、というのが基本的な価値観になっている。
しかしながら。
18世紀ドイツプロセインの大哲学者カントは、『誠実であれ』と説きます。
カント
誠実であることが義務である。例外を作ってはならない。
義務をひたむきに守ろうとする動機(=絶対に嘘をついてはいけないと考える良心=善の意思)に道徳性が宿ると考えたのです。
カントは、冒頭で述べた例の場合も嘘はついてはならないと言います。
なぜなら、「あなたが真実を語る(=コンビニのトイレに友達がいると告げる)」→「あなたの友達がナイフで刺されて死ぬ」という行為と結果の間には、因果関係はなく...
真実を告げて起こるその結果は偶然的である。
あなたが真実を語るということは、自分の内なる良心(善の意思)に従ったことであるから、その行為は正である。
嘘をつくということは、誠実であれという義務に反している=善の意思に反していることから、その行為は不正である。
と考えました。
※ここでいう不正とは、その嘘をつく相手にということではなく、人類全体に対する不正という意味を持ちます。
カントの基本的な考えは、「善いもの」というのはそれ自体が「善いもの」であるという前提に基づきます。
ちょっとわかりにくいですね。
例えば、「恵まれない子どもたちに寄付をする」という行為があるとします。
カント流に考えると、「寄付をして誰かが助かった」という結果は重要ではありません。
なぜ寄付をするのか?という動機に重きを置くのです。
「周りの人に良く思われたいから」「税金が安くなるから」寄付をするならば、それは「〜のために〜をする」という形式をとります。
これは、「〜のために」ということが「行為の動機」であって、内なる良心に従っているわけではない。すなわち、それは道徳的行為ではない。
この「〜のために〜をする」という形式を仮言命法と言います。
その反対が、「〜せよ」「〜せねばならない」という命令系で現れる定言命法です。
道徳の基準は定言命法の中に宿る。
「誠実であれ」
「人に優しくあれ」
「人を殺してはいけない」
↑道徳の基準になる
仮言命法だと
「相手に信用されるために、誠実であれ」
「人に優しくされたいなら、自分も人に優しくあれ」
「警察に捕まる可能性が高いから、人を殺してはならない」
↑は道徳の基準たりえない。
では、定言命法で表されたものはなんでも道徳的なのか?
「人を殺さなければならない」
これは明らかに道徳的とはいえませんよね。
カントは同時に、定言命法の形で表される行為が、万人に適用される法律となっても破綻がない場合は、道徳法則になると考えます。
「嘘をついてはならない」
「誠実でなければならない」
「困っている人を助けよ」
↑法律となっても差し支えないため、道徳法則たりうる。
「汝の意志の格律(=自分の行動を決定する決まり事)が、常に、同時に、普遍的立法の原理(=万人に適用される法律)となるように行為せよ」
とは、有名なカントの言葉です。
非常に厳格な道徳観を持っています。
↑もしカントが現代に転生し、エイプリルフールを体験したとしたら...
一方、「やらない善よりやる偽善」という言葉があるように、動機よりも行為の結果を重視する考え方があります。
結果を重視し、功利主義を暗黙の了解としている現代社会には、こちらの考え方の方が合っているように思われます。
たしかに、カントの道徳観は、人類がみなカントのような厳格な考え方を持っていれば理想なのでしょうが、雑念が多い私たちにはいささか厳しすぎる...。
しかしながら、カントの考え方は、現代社会を分析する上で一つの物差しになるのではないでしょうか。
功利主義的な価値観が支配した先にあるものは?
効率だけを突き詰める、なんとも味気なく、生きづらいディストピアである気もします。
次回は、現代社会を分析する足掛かりとして、ヘーゲルからマルクスにつながる「唯物論」を取り上げていきます。
それでは、また次回!!
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